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 その結論を胸に置くと俺はすぐさま外に出た。サナエには生きてもらわないと。俺は母ちゃんの遺志を継ぐ。
 ドアを両手で押して部屋に酸素を封印し、5階の廊下から空気屋を探した。居た。好都合にも集合住宅地は商売所なのだろう、いつも同じ場所に居る。俺は階段の方にゆっくり歩き、よしっと気合を入れて階段を下りた。マンションの扉から出るまでに一人の人とも会わなかった。みんな俺たちのように耐えているのか、母ちゃんのように亡くなったのか。それとも……、考えてニヤリと笑った。わかっているのは酸素屋がいても行動に移していない人がいるということだ。まだみんなはその結論に達していないのだ。俺は自然と早足になっていた。
「酸素を買いたいんですけど……」
「ハイハイ。こっちのは1コで2万円、こっちのでかいヤツは1コ5万円ね」
始めに男が持ったほうが母ちゃんの買ってきた方だった。俺はでかいヤツにしようと決めていたが幾つ買おうか迷った。こんな時世にするんだからボッタクリは覚悟の上だったけど、でかいのにだって小さいびんしか入っていない可能性を考えると即決できなかった。すると屋台の中で電話の音が鳴った。火力発電ができないから電気だって高級品なのだ。なんかむかついたけど、店主が丁寧に断わって行ったので牙を削がれてしまった。やり場のない怒りを溜息をついて収め、俺は品定めを再開した。
「じゃあ、こっちを5コ」
「ハイハイ。じゃあ50万ですね」

……なんて言った?

「25万ですよね」
「今の電話で値上がりの報告があったんですよ」
「僅差だからセーフにしてくれよ。値段を聞いたのは電話の前だったし」
俺は敬語を使うのも忘れて店主を攻撃した。本当に忌むべき相手は電話先にいたのかもしれないけど、俺は目の前の命綱を買うことに必死で、それを妨げる直接のものしか見ていなかった。しかし店主は俺の言葉で気弱そうに嘆くわりに頑として譲らない。仕方ないから煮えくり返る腹わたを抑えて、ついでに頭も冷やして理由を尋ねた。
「俺は低酸素でイライラしてるんだよ。冷静なうちに理由を言え」
お世辞にも冷静とは言えない口調だが、俺は言い終わると黙って答えを待った。男はのんびりと頭を掻きながら言った。
「レジで打った情報が一瞬で本社に転送されるようになっているんです。だから不正はできないの」
男は首を横に振った。
「もし不正をして私がクビになったら私だって私の家族だって呼吸できなくなるんだ! エエ? お前に責任がとれるのか!」
自分の言っていることは間違っていないという身勝手な自信。俺の鬱憤はもう我慢を溜められるスペースが無い。
「ふざけんな。目いっぱい呼吸できる奴が逆ギレすんじゃねえや。責任者を呼べ!」
「なにおう、おめえだって逆ギレじゃねえか!」
ごもっとも。しかし、そんなこと落ち着きを失った俺には通じていなかった。

 自マンションの階段を駆け上がり、呼吸困難による目眩で段から足を踏み外してコンクリの壁に頭をぶつけて、それでやっと気づいた。びんを5つ抱えている。逆ギレにしたって何にしたって盗みは立派な犯罪である。俺はやっちまったのだ。
「ばかあ、兄ぃのばか」
薄い酸素の中でサナエの声が聞こえる。ぼやけた意識の中でサイレンの音が聞こえた気がした。聞きなれた音だと思ったのは先日母ちゃんが死んだときにも来たせいだろうかなんて考えてみる。
「はーい」
サナエが玄関に向かっていってドアを開けた。何してんだろう。気づくまで数秒かかる。ああ、あれはパトカーのサイレンじゃなくて家の呼び鈴だった。抱え込んだ膝に額をうずめる。
「お兄ちゃん、お客さん」
サナエの目が腫れている。思い起こせば、俺が帰ってきてからずっとサナエは泣き声だったような気がする。
「お客さんなんて珍しいね。兄ぃのクラスメートかなんかかなあ」
クラスメートが来るわけないじゃん。俺は無言で手を振った。布団に膝をついて、手付かずの5つのびんをちらりと盗み見て立ち上がった。ふとんに五指の跡が残っている。
「俺と同い年で警察なんてご立派」
独り言。常識で考えて俺と同年代の警察なんていないだろうなんて考えなかった。次に来るのは俺を捕まえにくる警察だと決めてかかっていたから。カツ丼なんていいから腹いっぱいの空気がご所望だ。でも、殺さないためとはいえ刑務所に空気が溢れていたら刑期が終わっても出たくないだろうなあ。俺は自分のことでいっぱいいっぱいだった。とことん下らない思考にも大事なサナエの空気を消費しなければならないことを忘れている。
「はーい、なんですか」
「やあ、ハウドゥーユードゥー。さっきの妹さん? いいねえ」
「……はあ」
玄関で待たされていた血色のいい男は不思議な態度で俺を出迎えた。なぜか出迎えられた気がした。スーツにネクタイ、微笑みと……
「どーも、こんにちは。空気屋の責任者です」
「あ、こんにちは……へっ?」
 ある意味、警察より厄介な奴が来た。俺はサナエを一人で置いて奴の車に乗り、排気ガスと二酸化炭素を吐き出して家を遠ざかった。いくら聞いても本社に向かっているとしか答えは返ってこなかった。


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