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 顔を洗って手を洗って、ついでに流しに置きっぱなしのグラスも洗って、それからどうしようか。俺はスローモーションで台所360度を見渡す。あ、歯を磨こう。
 俺は練りハミガキを歯ブラシにつけてゴシゴシと上下運動して、また無駄なカロリーを費やしている。鏡の前にいる俺は1ヶ月前と比べてひどい顔をしていた。不健康に痩せて目の下にツキノワグマも真っ青な三日月影があった。とろーんとした目つきで俺を観察する鏡のなかの俺。少し猫背になったかもしれない。いっきに歳をとった気がする。
 ああ、疲れた。ゆらゆら揺れて、かすんだ視界に一筋の煙が見えた。
「母ちゃん…煙草はやめろよぉ? 何やってんだよ」
母ちゃん何やってんだ。おい、母ちゃん何やってんだよ。やめろって。

「お兄ちゃん、ひとり言はやめてよ! お母さんは自殺したじゃん!」
サナエの言葉で俺は幻覚を見ていることに気づいた。腹が減って息苦しくて意識が朦朧とする。現実から逃げたい。
「……ってお兄ちゃんが言ったんじゃん」
だけどサナエの必死の声は俺を伴って現実を貫いていく。
 5日前に母ちゃんが煙草を食べて死んだ。相変わらずの低酸素状態で意識が混乱して、ニコチンで人が死ぬということを忘れていたのだろうと他人は言った。やがて刑事が来た。やじうまは一人も来なかった。誰もそんなことで無駄な呼吸をしてくれなかった。母ちゃんの遺体はすぐに警察にひきとってもらった。
 始めサナエは全然信じなかった。線香から煙も上がらないこの状況では俺も信じられなかった。恐らく火葬なんてもっての他だし。きっと母ちゃんは場所を見失って盆にもここに帰ってこれない気がする。風習が腐っていく。
「わかってる」
事実として受け止めている。でも、わかっていると言えた自分の声を聞いて初めてわかった。わかっているというだけでこんなにエネルギーを使う。
「……じゃあ言わないでよ。早く忘れたい」
言ってサナエは小さく二回咳き込む。母ちゃんが死んで俺たちの会話は増えた。酸素は減った。俺はショックを受けることすら怠けてしまったのだろう。母親が自殺しても疑問に思わなかったし、死体を見ても何も頭痛も感じなかった。
「あれ、開けよっか。酸素びん」
「何言ってんの、お兄ちゃん」
サナエは耐えられなかったらしい。怪訝そうな顔をして俺のいる台所にきた。
「母ちゃんの遺品の処分」
俺は言った。そして台所を出た。居間の奥の部屋にある神棚にびんを置いてあったはずだ。そして高い位置にあるせいもあるが誰も触っていない。それを下ろして持ってきた。台所でサナエは何ともいえない表情をして待っていた。サナエも俺と同じ、好奇心や欲がふすまの陰から覗いている。鬼のいない隠れんぼで、自分から抜ーけたと言い出したくてうずうずしているだけなのだ。
「そうだね。忘れたいしねえ」
そのサナエの表情が哀しそうだったのは好奇心にまけた良心だったのだろう。
 これは今に残されたたった一つの娯楽といっても過言ではないだろう。俺たちは半月ぶりに金属びんの蓋を回した。今度は最後まで回しきって蓋を開けた。その中を覗いて俺は驚いて低くうめいた。サナエが何々とまくし立てる。焦っているようでもあった。それくらい変な声を俺は出したみたいだった。
「いや…も1個びんが入っているだけなんだけど…」
サナエはロシア人形やこけしを思い出したらしい。血の気が滝のように引いていく。でもその推察は幸か不幸か間違いだとすぐにわかる状態だったから、とりあえず俺はサナエをなだめた。なぜなら入っているびんはすでに随分小さく、中にもう一つびんがはいるとは思えないのだ。
「サギだあ……」
膝がゴンっと打つほど激しく脱力しサナエは崩れ落ちた。ここのところすっかり感情が衰えていたので堰も弱ってしまっている。大きな期待が流れ出る一方だ。俺もペットボトルサイズの金属びんを持って肩を落とした。一応、中を調べてみたがどうやら全く関係ない薬品だ。結局その5センチくらいのびんを親指と人差し指で挟んで取り出し、しぶしぶと眺めてみた。サナエもかれこれ1ヶ月ひきっぱなしの俺のフトンからそれを見上げている。
 それで、事件は一瞬にして終わった。そのびんの中身がぐつぐつと揺れ出し、びんごと破裂したのだ。うわあ、と思って身体をねじったが、びんは破片を飛ばすことなくその室温空間に溶けたらしい。
「液体酸素か……」
「あーびっくりした。ナニソレ?」
「サア、よく知らん」
「もお、いいかげんなことばっかり言って……。これ寿命縮んじゃうよー」
なんだかわからないまま、俺たちはいっぱい呼吸していた。無意識に頭も働いていた。
 俺たちはこの1ヶ月死んでいたようなものだったのではないか。単純すぎる結論だけど、人は酸素がないと生きていけない。


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