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 それからまた3日たった。
「お母さん、どこ行くの?」
サナエがわざわざ立ち上がって聞いた。俺は寝転がったまま様子を見ていた。
 母ちゃんの顔はさすがにやつれていた。煙草をやめて15日目、お金がないわけでない。相変わらず葉っぱを燃やす酸素がないだけだった。母ちゃんは何度か財布を覗いていた。500円玉一つあれば余裕で買えるものが今は買えない。それが現実なのだ。母ちゃんの目の下のクマが日に日に濃くなっていくのを俺は見ていた。
「馬鹿な心配すんなって。食料がもうないでしょ? 買い行くだけよ」
 酸素の大量消費という点で地域の電気の供給がストップした。そのときからマンションのエレベーターは使えない。5階分の階段の上り下りは予想よりはるかにきつい。エネルギーがコンクリートに奪われるような疲労感だ。俺たちは買い物に行ったり外食に行くことすら億劫になっていた。
「いってらっしゃーい」
だから煙草を買ってくることなんてないと知っているし、万が一買ってきても吸う余裕なんてない。知っているのにまるで厭味のように子供を疑う、母ちゃんの被害妄想が今はひたすら重い。でも俺はそういう無意味な混乱を口にしないほど倹約体質になっていた。
「お兄ちゃん、北枕」
俺は居間の方に頭を向けて寝転がっていた。サナエがそう言うもんだから、足に挟んでひょいと持ち上げた。枕は南にあるということである。
「バッカだねー」
サナエは肩を下ろして苦笑した。

「サっちゃん、いいもの買ってきたよ」
母ちゃんがそう言ってサナエに見せたものは手のひらサイズの金属びんだった。
「何それ?」
サナエも同じことを思ったらしい。その感動も何もない反応を見てクックッと笑う母ちゃんは、出掛ける前と違って活き活きしていた。もったいぶって正体を隠す母ちゃんにサナエは答えをねだった。ここ一週間途絶えていた家族の会話が戻ってきた。俺はみんなの分の呼吸を必死に我慢して、ただ聞いていた。
 そのとき多弁になっていたせいで肺に負担がかかったサナエが結核患者のように咳き込んだ。俺も母ちゃんもびくりとして空気が沈んだ。
「母ちゃん、もったいぶるなよ」
「あ、ああ」
そういって金属びんの蓋を軽くひねった。そして中途半端に蓋のずれたそれをサナエに手渡した。
「酸素を買ってきたんだよ」
「酸素?」
「そこの路上で空気屋さんが売ってたんだよ。因果な世の中ねえ、酸素売りなんてさ」
母ちゃんは溜息をついて右手をポケットに突っ込んだ。そのポケットには当然煙草もライターも入っていない。空回りの手をポケットから抜き出して、居間にひきっぱなしのフトンに膝を落とした。
「お兄ちゃん、これどうしようか。非常用に取っとく?」
サナエの手のひらは金属びんの蓋を覆っている。すぐに閉められる、すぐに開けられる状態だ。言葉とは裏腹に好奇心でいっぱいなのだろう。
 俺は首を縦に振って、取っとけと付け加えた。サナエは同じく首を振り蓋を閉めた。
「すぐに、前みたいに肺いっぱい空気を吸える日が来るよ」
その前にサナエの肺がどうにかなってしまわなければ。
「そだね。その頃にはプレミアついてるかもよ」
「かもな」
 こんな異常事態がずっと続くはずがない。トイレットペーパーを買い溜めした主婦のように、後世では空気を買った事実が笑いものになるだろう。


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