[涸吸〜息もできない日常の切片]
 


  [1]


 顔を洗って、歯を磨いて、それからどうしようか。
 流しの鏡の前でブラシを上下させながら、その口の奥に立ち並ぶ白すぎる歯を凝視して考えた。俺はぼーっとしている。駄目だ、こんなしょうもないことに無駄なエネルギーを使っちゃいけない。俺は手をとめた。そして傍らにあるコップに入っていた水を少量口に含んで丁寧に吐き捨てた。
「おにいちゃぁん、うるさぁい」
妹のサナエが起きてしまったようだ。だるそうにフウゥと溜息をつく。
「あくびはするなよ」
「はぁーい」
「まだ寝てろよ。どうせ今日もすることなんてないぜ」
俺は姿の見えないサナエに向かってちょっと大きめの声で話す。サナエから返事は返ってこない。たぶんもう一度フトンに入ったんだ。俺は鼻から息を吐く。そしてグッと鼻をつまむ。この部屋にある空気はサナエと母ちゃんのものだから、こんなに吐いても吸ってもいけないのだと繰り返す。薄酸素警報が出されてから今日で3日目、俺は呼吸を自己制限しようと決めていた。
「じゃあ、俺ももう一度寝るか」
 俺はこの洗面所から目と鼻の先にある台所まで歩いて、広げっぱなしのフトンにごろんとなった。サナエは向こうの居間で寝ている。母ちゃんも同じ。俺たちは3DKのマンションの5階で何もせずに生きている、この3日間ずっとだ。
 あー、ヤメヤメ。無駄な代謝をするもんじゃない。
「ねえ、お兄ちゃん。アレ聞こえるー?」
サナエからまた声が掛かる。起きていたのか、と始めに思った。だけど何ら不思議なことじゃない。昨日の昼から寝ていたんだ、現に俺だって眠くないんだから。
「兄ぃ、寝れたの?」
「起きてる」
「空気屋さんだって、聞こえた?」
俺は耳を澄まして外の音に集中した。僅かだけど聞こえる。八百屋や豆腐屋顔負けの呼び込みで、いっぱい息を吐いて声を出している。
「ああ、聞こえた」
その呼び込みのせいで町内の酸素は確実に消費される。暴利だ。でも今の俺はその怒りに使うエネルギーすら今は惜しいと考える。悔しいと思うための酸素すら俺は吸っちゃいけない。戒めろ。これはサナエと母ちゃんの酸素だ。涙が一滴、耳に入った。それだけだった。
「サナエー、苦しくないか?」
「まだ生きてるから大丈夫ー」
俺は険しい顔のまま無理して笑った。シャレにならない。
「お兄ちゃん、今の笑えてないー」
「当たり前だ」
 サナエは肺疾患なのだ。本来ならボンベが欲しいくらいだが、今の状況じゃそう簡単に酸素は買えない。母ちゃんはそれで煙草をやめた。禁煙2週間目くらいで今が一番辛い時期だろうが、それでもイライラしながら何とか持ちこたえている。煙草で弱った肺じゃ、この状況を切り抜けられないだろうと東京のニュースキャスターは言った。俺はその時点で一人になる決意をした。なるべく呼吸しない。そして縁起でもないけど、二人の亡骸を看取るまで俺は死なない。


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