なりやまぬぎんのおと


あなたはもう、私の手には戻らない。

 あなたが好きだった並木道に来ています。今にもこの木々のどれかしらからあなたがひょっこり顔を覗かせそうでオレは内心かなり動揺しています。あるはずのない、そんなことを期待している自分がとても情けない。とても恥ずかしい。だけど止まらない。……ばかだなあ。ばかだなあ、本当に。
 昔。
「鈴が鳴るの」と去ってしまったあなたは言った。
「アナタが笑うと鈴が鳴るの。抱き締めても鈴が鳴るし、キスをしても鈴が鳴るの。りーん、ってちいさな音が私の中で確かにするの。」
 心のずうっと奥、イヤな事も、毎日のごたごたも、イライラすることも、そこには深すぎて入りこめなくって、そんな何にもない真っ暗な中で小さく鈍く銀色に光っている鈴が鳴るの。確かに鳴っているの。あなたに呼応するように……今も鳴っているのよ。
 笑うあなたの心の奥には、涼やかな鈴の音があるという。それはとてもあなたに似合う気がして、それは本当にあなたの中に存在する気がして、オレは笑った。笑ったらあなたは、ガキだなって思ったんでしょう。とふくれた。オレは否定もせずにただ笑い続けた。もう随分と昔の話。
 目の前でたくさんの緑が光をあびながら揺れる。最初に出会ったときもこんな風だったな、と思い出した途端、濁流のように時間軸を無視して過去が溢れ出す。あまりに激しく多大な波にオレはただ並木道の入り口で呆然と立ちすくむ。すくんでしまったオレの前や横や後ろを何気ないあなたが通りすぎていく。髪の長いあなたが秋の落ち葉を一歩一歩踏みしめながら歩いて過ぎる。ロングコートのポケットに両手を突っ込んで、肩を竦めて歩いてよぎる。肩を竦めすぎて顔が半分マフラーに埋もれている。白い花が散る。雪のように散る花に触れようと、並木を見上げて、あんなに長かった髪をばっさり切ってしまったあなたが手を伸ばす。まっすぐに上に伸ばされた手がひらひらと揺れる。花を掴もうと揺れる。それがどうしてもさようならに見えて、それが辛くて辛くて仕方がないのに、オレは目を離せない。笑ったり拗ねたり泣いたり怒ったり。黙ったり微笑んだり考え込んだり無表情になったり。めまぐるしくめまぐるしくオレの周りを囲んで、あなたは過ぎる。竦んでしまったオレはただ通りすぎるそれを見ている。なす術もなくただ、じっと。ずっと。

 りん

自分の中のずっと奥のほうで何かが震えるように揺れた。それが小さな音をたてる。か細いような悲しいようなせつないような哀れむような。

 ちりん

 薄汚れてしまっているオレの心には存在しようはずもない、小さな小さな銀の鈴が。確かに今鳴っている。ああ、これがあなたの言っていた鈴か。あなたが自分の中にあると言った、あの鈴なのか。あなたはここにはもういないのに。季節が変わっても、同じ季節がまた巡ってきても、その季節にもうあなたが現れることはないのに。それでもオレの鈴は鳴るのか。あなたを求めて鳴るのか。

 激流のような記憶とこれ以上ない動揺に流されまいとオレはそっと目をつむる。あなたの気配は依然ごうごうとオレの傍らを過ぎていく。
 オレはもう行こうと思う。いつまでもここに留まってはいられないみたいだから。
 だけど。
 もうあなたを抱きしめることも、あなたに触れることも、あなたの名前を呼ぶことも、あなたを見つめることさえもできなくなってしまったけれど、あなたのことを思い出すたび、オレの胸の一番奥、銀の鈴は鳴るだろう。か細く悲しくせつなく哀れに、ずっとずっと震えつづけるだろう。
 ただ一つ、あなたのためだけに鳴る、銀色の鈴が。

 鈴は鳴り続ける。オレは荷物を持ちなおす。肩にかけた皮のベルトが荷物の重みでぎしりと軋む。緑色が生き生きと光る。光りながら揺れる。それに背を向けてオレは歩き出す。そしてもう二度と振り返ることはなかった。

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