遺書と秋の海


――まったくもって気分はサイアクだよ。

 僕と同い年くらいの男がテトラポットの上にいる。猫っ背で頭を垂れて座っていた。僕は受験勉強の気分転換によくこの海岸に散歩に来ていたんだけど、奴は初めて見る顔だった。
(落ち込んでんのかな……)
 一般論かどうかは知らないけど、落ち込むと海が見たくなるものらしい。失恋でもしたのかなと特に興味もない感情で、彼を視界の端から抹消した。

 そういう僕も落ち込んでんのかな、なんて考える。今回、成績が落ちた。僕はちょっとへこんだ。一時的なことだと思って親も先生も何も言わない。次は上がるって信じてる。
(そーいうのをプレッシャーってゆーんだよ)
 部活をやめたせいで集中力が落ちた。でも母さんは、勉強できる時間が増えたんだからきっと大丈夫よなんて言うし。非効率な時間がどんどん過ぎていくのに、夜中ココアなんて持ってきてくれるし。

(いいわけがましー)

 ガコ…。テトラポットの上で妙な音がした。上に乗ってた奴がバランスを崩したらしい。ふっと笑う。男はきょろきょろ辺りを見回し、僕を見つけると少し気まずそうな顔をした。だが、それから奴は僕にオイと声をかけてきた。そして親指を立ててこっちに向けている。
「ヒッチハイカー」
僕はその一瞬で、こいつがバカだとわかった。即行無視。
「って、オイ、止まれよ」
「なんだよ」
「まあ聞け。ちょっと変な拾い物してな」

――まったくもって気分はサイアクだよ。

 奴の招きで僕はテトラポットに登った。海面の夏の空を映したような青色とは裏腹に潮風が肌に冷たい。秋の海なんてこんなもんかと思った。そこはとても静かで広く、開放感があって、寂しい。呆然と海を見ていた僕の肩に熱をもった手のひらが当たる。奴の手だ。
「俺、エイゴ」
不吉な名前だ。僕の苦手教科じゃないか。
「お前は?」
「別に……」
「オイオイ、不審人物じゃないんだから名乗れよ」
「別にいいじゃんか」
「ま、そうだけどよ。普段ならお前はお前でもいいんだけどよ。今日は嫌だ。なんか嫌なんだよな。だから名乗れ」
「……誠一。な、別にいいだろ」
「んあ、なんか聞いたら聞いたで、別にいいや感がしてきた」
変な奴。
「あっそ。で、なに拾っ……」
「聞くか?」
奴、エイゴは――変換方法がわからない。恐らく「英吾」だろう――僕の質問を遮ってイヤホンを片方よこしてきた。正直むっとした。話を聞かないばかりか、音楽を聴けたあどういうことだ。
「あ、悪りぃ、説明足りねえよな。これ、拾いもんってのがこれなわけ」
僕の思考すら遮ってマイペースに話を進めるエイゴだが、うまく思考に繋がってしまったため反抗も思いつかず、とりあえずイヤホンを耳に差し込んだ。
「これのどこが変な拾いもんなんだ? ただのMDじゃん」
「待てや。再生してないもん普通なのは当たり前だろ。中身だよ、なかみ」
で、耳からピッと音がして曲が……と思ったら男の声が何か喋り始めていた。ただ、音がこもってて聞きとりにくい。あの英語のリスニングテープみたいだ。確かに奇妙だ。
 と、しばらく黙って聞いていたら、一文だけはっきりと聞き取れるのがあった。僕は全身がビリッとして、耳に手を当てた。
「さぶっ…。何なん、これ」
聞かなきゃよかった。無意識にやっていたのは耳を塞ぐ行為だったんだなと後で気付く。だけど聞いてしまった。
「どっか知らねえ奴の遺書。……たぶん、マジもん」
エイゴが傍らで短く説明を加えた。「俺、全部聞いたもん」。なんか、感覚にトドメを差されたみたいだ。

――オトウサン、オカアサン、ダカラ、ボクハ、死にます。

「まったくもって気分はサイアクだよ」

 イヤホンを嵌めたまま70分間、じっとこのまま。テトラポットの上に並んで座っていた。再生音が切れてキュルルと頭まで戻ってしまった。
「何がしたかったんだろうなあ、こいつ。意図が汲めん」
エイゴがぽつりと言った。背を丸めてぼうっと海を見ている。
「まったくだ」
僕は同意を打つ。そもそも死のうと思う奴の気持ちなんか知りたくもない。もう日が半分水面に埋もれて、海はゆらゆらと赤く染まっている。僕たちの腕や顔も赤い光に照らされている。
「眩しいな」
「ん、ああ、もう時間が時間だしな」
あーきのゆうひーに、てーるーやーまーもーみーじ。エイゴがポツリと歌う。秋の夕日…いい声だった。
「帰っていいぞ、セイイチ」
いきなり歌い始めたかと思いきや、突然奴は突き放すように言った。
「指図すんな」
僕はそれを突っぱねた。
 日が沈んだ。目の前に広すぎる闇が横たわっている。

「セイイチ、話につきあってくれてありがとよ」
 テトラポットの上でエイゴが説教たれている。「ほら、遅いし帰れよ」。服の袖が引っ張られる。そのせいで身体のバランスを崩し、一瞬、真下にあったはずの夜の海が目の前にくる。僕は慌てて体勢を立て直し、一息ついたあとで、自分のシャツの袖を奴の手から引き剥がした。
「いいよ、ほっといてくれって」
「落ちるぞお」
「うるせえ」
 またブンっと風を切るように腕を振った。

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(…あれ、……)
 そこにはなんの手ごたえもなかった。振り切った勢いで下に夜の海が見えた。テトラポットの上には一人しかいない。

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「痛ってーなあ」
その声で、ふっと我に返って隣りを見る。エイゴが肩を押えている。僕の腕の感じからして殴ってたらしい。
「しつこいからだよ」
謝ろうかとも思ったけど、エイゴの顔を見たらそんな気もなくなってしまった。ふいっと後ろを向いてテトラポットから飛び降りた。
「バイバイ」
「じゃあな、セイイチ」


 それからエイゴとは一度も会っていない。あのMDがどうなったのかも知らない。今考えてみれば、どこで拾ったのか、なんで拾ったのか、聞きたいことはいっぱいあった。だけど、聞かなくてよかったとも思っている。

 それから僕は毎日、受験勉強受験勉強と追い込まれ、海に来ている時間も増えていた。

――まったくもって気分はサイアクだよ。

 テトラポットの上を見ても、エイゴはいない。幾重にもなったテトラポット、登ってみれば奥まで見えるのかもしれないけど……恐くて登れなかった。あの日、僕は吸い込まれるように幻をみた。だから、なんとなくなんだけど、一人で登るとあの時と同じ風景が見えそうで――いわゆる既視感ってやつだという予感がして、登るのを避けていた。

 そして、今日も海が赤く染まった。

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「あーきのゆうひーにーー。よっ、と」
 日の暮れた海岸で、テトラポットに登る影が一つ。四角い小さなものを取り出して手首に当てる。小さなためらい傷。大きなためらい傷。それよりちょっとだけ深い傷がついたところで、きらりと光るそれは海に投げ込まれた。そしてそのままバランスを崩して、その身体も海へ――。
 ざざーん、と波がテトラポットに打ちつける。

 すすきと団子の夜。満潮になればテトラポットを追い越す勢いで波が覆いかぶさってくる。憎しみも苦しみも、血も涙も、あるいは思い出さえ流れていくのかもしれない。
 だから落ち込んでいる時は海を見るのか。それとも月が呼ぶのか。

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 あれが誰の遺書だったのか。僕はその答えを知っているような気がした。





 




 幻想夜話開設三周年記念に、麒麟さんより戴きました。

 祝い品らしからぬ、とのことですが(苦笑)それについては、一部私にも同じような記憶があるので問題なしでしょう。
 そういえば、麒麟さんからお預かりする作品には意外に『海』が多いかなあと、このコメントを書く段になってやっと思いました(苦笑)

 重さから目を逸らさない、リアル。たとえば、麒麟さんの作品に対して、私が思うひとつがそれなんじゃないかなあと。惹き付けられる理由。痛いけれど、いたづらに傷つけるのではない――見据える視点が、たとえば私になくて彼女にあるもの。

 ある種の非日常は、限定的には日常なのかも知れないと……数多くの悩める受験生を思いながら考えてみたり。真面目なコメントを書くと暗くなりそうなのでやめておきます(苦笑)
 関係ありませんが、文中、個人的に「ヒッチハイカー」がややツボです。

 最後になりましたが、試験等お忙しい時期でしたのに、幻想夜話の為にお祝いの品を贈ってくださって、本当にありがとうございました。
 これからも、よろしくお付き合いください。

2002.9.9 雪篠


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