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 [春]


土練りの徳利から
透明な盃に注がれる紅色の水。
柳の下で酒を嗜む老人は
その水の流れ落ちるさまを見て詩歌に残す。
――我、春を見たり


梅の花が散って紅い風が流れてゆく。
名残惜しさが、この梅の枝軒をくぐらせていた。

「冷たっ」
頬を触ると、雫が落ちていた。
反射的に見上げると梅の木から花が滴っていた。
恐る恐る花に手を伸ばしてみると、指の先で四散した。
紅色の水となって地に落ちた。

「それは春の水ですよ」
後ろを振り返ると、顔の前で手を合わせている子供がいた。
「春の風を飽和状態まで溶かし込んだ水、それを千年間寝かせて出来たものです」
水からは花の香りがする。

「召されますか?」
子供は丹色の銚子を差し出し、細い滝のように春の水を流し出した。
空中で溜まり、そこから煙が立っている。
「早く飲まないと全て気化してしまいますよ」
とても熱いのかと躊躇われたが、その水の味が知りたかった。
煙に急かされるまま、空中から見えない盃を受けて一気に飲み干した。

全身に響くほど冷たかった。
体温が正常に戻ると、ふっと草花の真新しい匂いがしてきた。
とても心地よい暖かさ。
気持ちよくなって、段々、意識が遠ざかっていく。

――ドサッ

子供は倒れ込んだ体を見て小さく笑った。
やがて木を見上げて「出ておいでよ」と、もう一人を呼ぶ。
もう一人も笑っている。

「凝縮された春を一度に仰いだら、失神するのは自明というものよ」
「単に酒に弱かったのでは?」
銚子と盃を消し、かめを取り出して、二人は紅い水の収穫を再開した。
「この人には、あの老人のような春の心がなかったのですね。自由を愛する心が…。だから凍ったりしたんですよ」

結晶は液体窒素のように外気に触れるとすぐに気化するような冷たいもの。
春の風は花が昇華して大気と混ざり合い、春の陽気を運ぶ。
万人にはそれくらいで丁度良い。

「この人はいつ目覚めるのでしょう?」
紅色の霧が二人を覆う。
風が過ぎる頃には、もうそこには誰もいない。
花のない木の下に一人、取り残されている。


 ――春眠 暁を覚えず

「春が過ぎたら起きるのではない?」
「もしくは心に春を宿したら、ですね?」

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