月花菓
 

 目が醒めると窓の外、明るい水色の空にぽつりと白く月が残っていた。
 それが痛いくらいにはっきりと、起き抜けの網膜に映った途端、まるで胸を衝かれたように悲しくなったから僕は慌てて妻の名を呼ぶ。
「ソノ」
返事はない。衝かれた胸はずきずきと悲しみを増してくる。この居どころのない悲しさを、僕はいつかどこかで知っていたような気がする。なのに思い出せないのがますます悲しい。
「園。」
いたたまれなくなって揺り椅子から降りた。振り向いてみてもひどく気配の空っぽな部屋に、僕は一人で立っていた。
「園?」
返事はない。


 昨夜、僕らは喧嘩した。いつもより帰りの遅かった園に、新しいシャツがないとか銀行の振込をまだしていないとか、些細なことで僕が突っかかったせいだ。
 園は腹を立てたようすさえ見せなかった。仕事疲れのなかに淋しそうな表情を浮かべて「分かったわ、ごめんなさい」と小さな声で言っただけだった。こんなの、ほんとうは喧嘩にもなってない。だからすぐに僕も「ごめん」と言いたかったのに、胃のあたりで引っかかって言葉が出なかった。
 僕の子供じみた態度を園はどう思っただろう。ひょっとしたら、彼女は気づいたかもしれない。以前付き合っていたという男と会っているのを、僕が昨日、見たことに。

 どうしても時々その男と会わなくてはならないのだと、それは僕らが結婚するときに彼女がたった一つ差し出した条件だった。
 理由は言えないの。一年か二年の間だけ、そうしたらもう二度と会わないから。
 僕はその条件を受け入れた。なんと言っても僕は園を愛していたし、その条件が呑めないからと彼女を失うわけにはいかなかった。それくらい信じられないわけはない、そんなことじゃ僕らの関係は揺らがない、実際、僕はそんな条件を昨日まですっかり忘れていたんだから。

 そして今朝、いつもの休日と同じように僕らは目覚めておはようと言い、いつものように園が作った食事を摂り、食後のコーヒーは僕が淹れた。そして僕は窓ぎわの揺り椅子で雑誌をめくりながら、いつの間にか眠ってしまった。サイドボードにはカップの底に1センチくらい飲み残したコーヒー、それは見慣れた光景のはずだった。
 でもほんとうは、いつもと同じなんかじゃない。
 甘い菓子と一緒にコーヒーを飲むのが好きな園が、今日は何も用意しようとしなかった。彼女のカップに行儀よく7分目まで満たされたコーヒーは、そのまま残されている。たぶん最初から、飲むつもりはなかったんだ。

 そう、気がついていたのに、どうして僕はうっかり眠ったりしたんだろう?ほんの少しの隙間から、園がいなくなるかも知れないとわかっていたのに。
 なんだか不条理な夢の中にいるみたいだと思う。起きている出来事をちっとも呑み込めない、うまく判断することができない。まるで僕と僕以外の世界がずれてしまっている。

 訴える網膜はぐるぐるまわる、冷めたコーヒー、空っぽの部屋、どうしたらいいんだ、紗のような雲、水色の空、白い月、
 何かがひっかかった。


 そうだ、小学生のときだ。
 50メートルくらい続くその細い道を使って学校に通う子供はあまりいなくて、歩きながらときどき僕はひとりぼっちになった。
 思い出した、今日と同じような空をしていた。朝の空に月が残っていた。鮮やかな赤紫と白のおしろい花が怖いくらいに咲いていた。ただでさえ狭い道は、両側から押し寄せてくるおしろい花で通れないくらいだった。どういうわけか花が咲き誇るさまと白い月は、死という、そのころの僕にとってまるで遠い場所のことを連想させたような記憶がある。
 そのせいかはわからない。その時ふと、このままもう二度と誰にも会えなかったらどうしようと不安にかられたんだった。
 このまま僕ひとり、SF小説みたいにずれた世界に行ってしまって、そこでは僕はもともと存在しない。この道が終わっても誰も僕を知っている人がいない、もう二度と誰にも会えない。親にも、兄弟にも、友達にも、

 園にも。

 園。
 僕が間違っていた、僕のせいだ。ずっと少しだけ、心のどこかがずれていた。あの条件を昨日まで忘れていたなんてそんなの嘘だ、ほんとうは不安だったくせに気がつかないふりをして、代わりに彼女を傷つけた。
「もういちど、」
 このままじゃいけない、もういちど園に会わなくちゃならない、
 この世界がいくら僕とはぐれてしまっても、園とははぐれちゃいけない、
 ああ僕は一体、どうして今になってしかそういうことに気がつけないんだろう?


 「もう起きてたのね」
玄関が開いた音に続いて園の声がした。と思った次の瞬間には園が目の前に現れた。息が止まるかと思った。百年ぶりのような彼女の実体に呆然とした。
「急にケーキが食べたくなったの」
駅前のケーキ屋の箱と財布をテーブルに置き、彼女は気恥ずかしそうに笑う。細い指が解いたケーキの箱からは、イチゴと生クリームのホールケーキが覗いた。


 ケーキが泣くほど嬉しかったのかと誤解されたくなかったから、僕は必死で涙をこらえて、
「なんだ、祝いごとみたいだな」
なるべくからかうような調子で言ってみる。それには答えず、園は小さく笑いながらケーキを切り分け始め、
「ねえ、コーヒー、淹れ直して?」
なんて言う。肩を竦めてコーヒー豆を取り出した僕の動きは、背中のシャツ越しに園の頬の温かさを感じて止まった。身動きできない僕の耳に「おいわい」、詩のように言葉が響く。
「昨日で最後だったの。これでもう二度と会わなくていいの」
その言葉の意味を理解するのにバカみたいに時間がかかった。
「園、」
僕の胸に回された腕を乱暴なくらい掴んだ。でも今度は我慢できなかった。

 園は僕が泣いているのに気がつかないふりをした。僕は気がつかれていないふりをした。そうして彼女が触れた背中から、悲しみはどんどん溶けていく。静かに結びあわされた指先を甘く滑って、気化したそれで包み込まれた僕たちは、きっと二度とはぐれない。


− 完 −

 


 

 キリ番のリクエストをきいてくださるとのムラキさんのお申し出に、図々しくも幻想夜話の2周年記念も兼ねて「月」というお題で書いていただいてしまいました。
 ムラキさんのお話はいつも透明なやわらかい優しさに包まれていて、絵筆の先を水につけた時に淡く色が広がっていくような、そういう感じに心に染み渡っていく感じがします。

 オシロイバナの花言葉は『臆病』『小心』といったものがあるようです。人間色々なことで不安になって、臆病になってしまうけれども……そういう時にそばにいて支えあえるような、そんなかけがえのない人の存在を信じさせてくれる素敵なお話をありがとうございました。

2001.9.9 雪篠  

HOME 麗文秘話へ 戴き物、或いは借り物へ戻る

inserted by FC2 system